top of page
アセット 19.png

​ このエピソードがそのまま吐露されている作品が存在する。もちろんクリスティとポワロの名前は別の人物に変えられているものの、彼女が事実真剣にその想いを持っていた事が文章として発表されているのが1951年の作品「マギンティ夫人は死んだ」である。

 ポワロのシリーズに登場するキャラクターの一人で友人でもある「スペンス警視」から依頼を受けたポアロが訪れる田舎町ブローディニーでの濡れ衣殺人事件の真相解明が描かれているのだが、同じくポアロの友人で女流探偵作家のアリアドニ・オリヴァも登場し、ストーリーの中では彼女の作品を劇化したいという作家との丁々発止の議論が繰り広げられる。その中に描かれるやり取りでの文章をそのまま取り上げよう。

hercule-poirot.png
スクリーンショット 2025-05-30 17.11.33.png

​ 『ラバーナムズのロビンの家では、劇の共同執筆が難航していた。「ねぇ、彼を菜食主義者にするのはどうかと思いますがね」とロビンが反対した。「あんまり酔狂すぎますよ。これじゃ人を惹きつけるというわけにはいきませんね」

 「だって仕方がないじゃない」とオリヴァ夫人は頑固に言った。「彼はいつだって菜食主義なのよ。ニンジンやカブの新鮮なジュースを作るためにミキサーをかけているんですもの」「だけどね、アリアドニ、どうしてまた?」「あたしの知ったことじゃありませんよ」とオリヴァ夫人は意地悪そうに言った。

 「どうしてそんな嫌味たらしい男をあたしが考え出したか、私にだってわかるものですか。そんなことを言っていたら頭が変になってしまうわ。あたしがフィンランドのことなんか少しも知らないくせに、どうして彼をフィンランドの人間にしたかという事と同じよ。菜食主義者だってそのとおり。彼をいや味たらしい俗物にしたのも、そういうふうになってしまったからなのよ。ね、何か書くとするわね、するとなかなか評判がいいらしい、いい気になってじゃんじゃん書きとばす・・・そのうちに気がついた時は、考えても不愉快になるような、スブン・ヤルセンという作中人物が、あたしに一生つきまとって、はなれなくなってしまっているのよ。おまけに世間の人ときたら、作者のこのあたしは、スブン・ヤルセンがお気に入りなのだなどと書いたり話したりするわ。スブン・ヤルセンが好きだって?  とんでもない、こんな痩せっぽちの菜食主義者のフィンランド人に実際に会ったら、あたしが今まで書いてきた殺人方法よりもっとましな方法でかたづけてやるから」

 ロビン・アップワードはうやうやしく敬聴しながら彼女を見つめていた。「ねぇアリアドニ、そりゃ素晴らしいアイデアじゃないですか、実在のスブン・ヤルセン・・・そして作者のあなたが彼を殺害するのだ。それをあなたの"白鳥の歌"として書くのですよ

・・・・あなたの死後に出版されるようにね」「冗談じゃないわ!」とオリヴァ夫人は言った。』

​ 如何でしょうか。クリスティ本人が同じ職業のアリアドニ・オリヴァであり、その作家が生み出したものの既に辟易している菜食主義者の主人公スブン・ヤルセンが正にエルキュール・ポワロそのものとして描かれているわけです。更には、その主人公を消し去った作品を作家の死後に出版云々・・・という件はポアロ最期の事件「カーテン」と被ってくるリアルさ。

 こうして作品を読んでいくと、クリスティのユーモアやアイロニーにはとことん楽しませてもらえる。また、彼女の人物描写は豊富な表現力をもってして独特なことこの上ない。その殆どは主人公の目を通して判断されている場合が多いものの、その容姿の描写言うに及ばず、それぞれの人物の性格描写には特筆すべきものがある。

 男性・女性・若者・高齢者それぞれに対する本質的な観察眼には舌を巻く。古い作品であろうが人間としての「性」(さが)には人種や時代はあまり関係なく、そんな場面に遭遇した時には文明が進化した現代ではあっても思わず膝をうつ事もしばしば。

 ポワロに負けず劣らずの人気キャラクターのミス・マープルが常に自分の住む愛するセント・メアリー・ミード村の知り合いを思い浮かべて人物比較する場面が多いが、まさに人間観察こそが真相解明に不可欠であるとの信念がポワロをして「動き回るだけで解決するわけではない、静かに小さな灰色の脳細胞と会話する事が大切なのである」とも共通する。

 面白いことに読む側も、たとえ登場人物が多すぎるなぁと感じてもそれぞれに与えられた個性豊かな特徴を知る事でこの「灰色の脳細胞」を駆使すれば何も問題はない。読者が頭の中であれこれイメージしながら楽しめるのが「本」であり、原作を凌駕する映画が殆どないという事実がそれを証明している様でもある。時代を超えて国境を超えて愛され続けている彼女の作品群、「クリスティ文学」と敢えて呼ばせてもらおう。

​ 

スクリーンショット 2025-05-31 11.53.03.png
スクリーンショット 2025-05-31 11.57.50.png
アセット 18.png
bottom of page